ジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー映画「リトル・ガール・ブルー」

先週、ジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー映画「リトル・ガール・ブルー」の試写を観た。当ブログの筆者にとって、勿論興味深い映像だが、ジャニスが生きた時代やその背景が筆者にとっては昔話を思い出す。

映画のタイトルは「リトル・ガール・ブルー」。アルバム「コズミック・ブルース」に収録された。曲はブロードウェイ・ミュージカルのヒット作家リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートがミュージカル「ジャンボ」の為に書いた。1962年に映画化され、女性歌手ドリス・デイが歌った。 荒々しい歌唱を売り物にするジャニスが選んだのはミュージカルのヒット曲だった。ジャニス・ジョプリンを書いた本「禁断のパール」(エリス・アンバーン :著 上原 英見:翻訳 大栄出版)には、「ジャニスがすべての録音の中で最も気に入ったのが『リトル・ガール・ブルー』だった」という記述がある。

ジャニスは1943年1月19日、テキサス州のポート・アーサーで生まれた。高校を卒業後、同じテキサス州のオースティンにあるテキサス大学に進学する。当時は勿論なかったが、オースティンは今では全米最大の音楽・映画・インタラクティブの見本市SXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)の開催地だ。ジャニスはこの地になじまず、サンフランシスコに渡る。ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加。バンドのデビュー・アルバムは不発だったが、ジャニスの存在は音楽業界で言う「バズ~ざわめき」になる。そして1967年、モントレー・ポップ・フェスティバルに登場する。

フェスティバルはママス&パパスのメンバーのジョン・フィリップスと、彼らのアルバムのプロデューサーのルー・アドラーが中心となって開催された。スコット・マッケンジーが歌って大ヒットした「花のサンフランシスコ」はジョン・フィリップスが書き、ルー・アドラーがプロデュースした。スコット・マッケンジーはCBSレコードのクライヴ・デイヴィス社長がレーベル契約をしたばかりのアーティストで、ジョンとルーはクライヴに、ニューヨークから西海岸まで飛んでフェスを見るように誘った。クライヴはCBSレコード所属のサイモン&ガーファンクルとバーズが出演する事になっていたので誘いに乗った。そこでジャニス・ジョプリンに遭遇する。クライヴは自伝「The Soundtrack of My Life」で、「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーはまだレコードがヒットしていない。しかしボーカルのジャニス・ジョプリンは『爆弾』だった」と書いた。

モントレー・ポップ・フェスティバルでジャニス・ジョプリンを観ていた業界の大物人にアルバート・グロスマンがいた。ボブ・ディランのマネージャーとして音楽業界では誰もが恐れる人物だった。アルバートはバンドの演奏を観て、「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーは要らない。ジャニス・ジョプリンだけでいい」と決めた。それでジャニスは独立し、アルバム「コズミック・ブルースを歌う」を発表する事になる。このフェスを観ていた、後に日本の大物業界人になる2人がいる。当ブログの筆者の業界の恩師。元ニッポン放送社長の亀渕昭信とフジパシフィックミュージック会長の朝妻一郎だ。二人とも上司のお供で研修中だった。

ピーター、ポール&マリーやボブ・ディランのマネージャーであるアルバート・グロスマンはウッドストックに近い田舎村のベアーズビルに事務所とスタジオを持っていた。ボブ・ディランも一時期、ベアーズビルに住んでいた。当ブログの筆者は何回もアルバート・グロスマンに会った事がある。1980年代に彼が所有するベアーズビル・レコードの日本での発売権をCBSソニー(現ソニーミュージック)が取得した。

トッド・ラングレンやユートピアが所属していた。日本でヒットした「アメリカン・モーニング」のランディ・ヴァンウォーマーもいた。1986年、カンヌで開催される国際音楽産業見本市MIDEM(ミデム)に向かう機中でアルバート・グロスマンは心不全の為に亡くなった。享年59歳だった。筆者は以前、MIDEM開催中にアルバート・グロスマンに招待され、上司の金井浩とカンヌの山の上の小さなレストランでディナーをご馳走になった。筆者にとっては食べたことがない極上のフランス料理だった。

映画にはニューヨークのチェルシー・ホテルが出てくる。ニューヨークのマンハッタン、7番街と8番街に挟まれた西23丁目通りに立つチェルシー・ホテルは多くの作家や文化人、芸術家やミュージシャンに愛された。アーサー・ミラーやアンディー・ウォーホールが定宿にしていた。アーサー・クラークが小説「2001年宇宙の旅」をこのホテルに滞在中に執筆したと言われている。ボブ・ディランもたびたび泊まっていたし(住んでもいた)、パティ・スミスやジミ・ヘンドリックスやレナード・コーエンも使っていた。

このホテルを題材に、ボブ・ディランは「ローランドの悲しい目の乙女」を、レナード・コーエンは「チェルシー・ホテル2」を、ジョニ・ミッチェルは「チェルシーの朝」を、ジョン・ボン・ジョヴィは「ミッドナイト・イン・チェルシー」を作った。悲惨な事件が起きたのは1978年の10月12日。100号室に宿泊していたセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスが恋人ナンシーを刺殺した。シドがチェルシー・ホテルに滞在したのはボブ・ディランの影響が大きかったという。筆者も70年代の初頭に泊まった事がある。筆者の部屋にはトイレが無く、共同トイレの鍵は壊れていた。怖い想い出がある。

ジャニスの遺作となる「パール」はポール・ロスチャイルドがプロデュースした。アルバムから「ミー・アンド・ボビー・マギー」が大ヒットした。「バトンルージュで一文無し 汽車を待つ 気分はジーンズと一緒で、ヨレヨレ ボビーが車をヒッチハイク 雨が降り出す直前だった 車に乗っかって一路ニューオーリンズへ」。曲はクリス・クリストファーソン(本名:クリストファー・クリストファーソン)が書いた。名前と姓の頭が同じで、最後にソン(息子)と付くのは北欧のヴァイキングの末裔だという話がある。筆者が知っている米ソニーの幹部の名前はオラフ・オラフソンだった。ポール・ロスチャイルドはドアーズのプロデューサーで頭角を表した。そのドアーズのジム・モリソンはジャニスの死後1年、パリで亡くなった。因みにバトンルージュでは先月、警官が黒人を射殺し、報復で警官3人が殺された。

アーティストの死後に作品が発表されたケースで、オーティス・レディングの「ドック・オブ・ベイ」はビルボード・シングル・チャートの1位になった。ジャニス・ジョプリンの「ミー・アンド・ボビー・マギー」も死後に発売され、2週連続の1位になった。

今回の試写会で恥ずかしながら分かった事がある。ジャニスのファースト・ソロ・アルバム「コズミック・ブルースを歌う」はビージーズの「ラヴ・サムバディ」他をカバーした物だった。2曲目に「メイビー」がある。作者はリチャード・バレット。ソウル(R&B)グループのシャンテルズに書いたものだ。リチャード・バレットはその後スリー・ディグリーズのマネージャーになる。スリー・ディグリーズと初来日し、芝の東京プリンスホテルに泊まった。筆者は当時スリー・ディグリーズの日本担当ディレクターだった。部屋に来いというので入った。上半身裸で、数カ所に傷があった。ヒットマン(殺し屋)の時に付いたものだと説明された。リチャードが、ジャニスが自分の曲を歌ったと自慢した事は1度もなかった。

映画「リトル・ガール・ブルー」は9月10日(土)よりシアター・イメージフォーラム他で公開になる。


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