ボブ・ディランのチョット面白い話その6

ボブ・ディランのコロンビア・レコードとの契約は5年間。ボブ・ディランのオートバイ事故(1966年)の翌年には契約が切れていた。コロンビア・レコードとしてはどうしても再契約をしたかった。ボブ・ディランが未成年だった為に修正の契約書を担当したのがクライヴ・デイヴィスだった。クライヴは1960年にCBSレコード(現ソニーミュージック)に法務担当として入社する。以後シカゴやサンタナやジャニス・ジョプリン、サイモン&ガーファンクルやブルース・スプリングスティーン等と契約を交わす偉大なミュージックマンになる。ボブ・ディランとの再契約が、67年にコロンビア・レコード社長に就任したクライヴ・デイヴィスの初の大仕事となった。

クライヴ・デイヴィスが自伝「The Soundtrack of My Life」でボブ・ディランとの再契約を書いている。当時コロンビア・レコードを傘下に収めるCBSレコードのスタンダードな契約は「5年契約 前渡し印税を含む50万ドルの保障 10枚のアルバム発売」。アーティスト印税は最高で5%だった。クライヴ・デイヴィスは既に契約が切れているボブ・ディランの契約更改を、オートバイ事故の為、ディランが曲を書けるかどうか、歌えるかどうか、演奏できるかどうかといった情報が全くない中でやらなければならなかった。

ボブ・ディランのマネージャーはジャニス・ジョプリンのマネージャーでもあるアルバート・グロスマン。業界ではタフ・ネゴシエイターとして知られている。そのアルバート・グロスマンからクライヴに連絡がある。映画会社MGMのレコード部門がボブ・ディランを契約しようとしていると。MGMのオファーは破格の「5年契約 150万ドルの保障 12%のアーティスト印税」だった。このオファーにCBSレコードは勝ち目が無かった。基本は「5年契約 50万ドルの保障 5%のアーティスト印税」だからだ。

この時アレン・クラインが登場する。アレンはローリング・ストーンズやブライアン・エプスタイン亡き後のビートルズの3人の(ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スター)のマネージャーをやっていた。ポール・マッカートニーは妻のリンダの父や兄が反対していて、アレン・クラインにはマネージメントをまかせなかった。。悪名は高い。映画会社MGMの大株主でもあった。アレンはクライヴにMGMのこの条件が妥当かどうか聞いてきた。結果MGMの役員会は条件が高すぎるとしてボブ・ディランの契約を承認しない事にした。

ボブ・ディランとコロンビア・レコードの契約更改は、「5年契約 前渡し金はゼロ 発売枚数は規定しない 10%のアーティスト印税」となった。当時としては極めて異例な契約になった。ボブ・ディランはレコードを出さなければお金が入らず、コロンビア・レコードは保証金でのリスクはないが、いつレコードが発売されるという保証もないから売上が立たない。ボブ・ディランは発売枚数にしばられない「自由」を勝ち取り、クライヴ・デイヴィスのコロンビア・レコードは「音楽業界の勲章アーティストであるボブ・ディラン」を勝ち取った。

アルバート・グロスマンを嫌う業界人(レコード会社や音楽出版社)は多い。しかし1963年、マネージャーだったピーター・ポール&マリーにボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌わせ、アメリカではビルボード・シングル・チャートの最高位2位に、そして全世界でヒットした。新人フォーク・ロック・バンドのバーズには「ミスター・タンブリンマン」をカバーしてもらい、ビルボード・シングル・チャートの1位に輝いた。これらはアルバート・グロスマンの仕事だ。音楽業界で「exploit」という言葉を使う。資源などを開拓開発するという意味だが、アーティストが持っている才能をより発展させるという事に使う。アルバート・グロスマンは、ボブ・ディランを歌手としては勿論だが、それよりも作家/詩人として高く評価した。

ノーベル文学賞は後1ヶ月。12月10日に授章式がある。


ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ボブ・ディランザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ボブ・ディラン
ボブ・ディラン

ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル 2016-12-07
売り上げランキング : 575

Amazonで詳しく見る
by G-Tools




プロフィール

洋楽天国

Author:洋楽天国
FC2ブログへようこそ!

スポンサードリンク
最新記事
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
QRコード
QR